直が、遣いを寄越した。五重塔で会いたいと、彼の家の者に言付けてきたのだ。
急にどうしたのだろうと、わたしは思う。
こちらから彼のほうに出向くことはあっても、向こうが遣いを寄越すなんて、尋常のことではない。
何かあったのだ。そうでなければ、直がわたしに手紙など寄越すものか。
行かなくてはならない。
直が……兄が会いたいというのなら。
「常さま、お待ちください。夜は……夜は危険でございます」
佐吉が慌てたようにそう言う。
そう、確かに夜は危ない。得体の知れぬモノたちが、跳梁跋扈しているから。
だが、直と会うのに余人が介入してくるのは歓迎できない。
「いいや、供は要らない。心配しないでおくれ、佐吉」
二人で……。直と二人だけで話をさせて欲しいのだ。兄弟が引き離されてから、二人だけで過ごすことは絶えて無かったから。
彼が牛込にやられて、どれだけ寂しかったろう。行き来を禁じられて、どれだけ哀しかったろう。
だが、初子さまには逆らえなかった。あの方が駄目だとおっしゃるのなら、それが絶対だったから。
「常さま、お願いでございます……。どうか」
佐吉が懇願する。彼の願いを聞いてやりたいけれど、これだけは譲れない。此度ばかりは、どうあっても我を通させてもらおう。本当に、佐吉には悪いと思うけれども。
すまない、佐吉。おまえがわたしのことを考えてくれているのは、よくわかる。それをありがたいと、いつも思っていたよ。おまえは、わたしの幸せを願っていてくれたね。そして、わたしに……家督を継いでもらいたいと思っているね。
本当に、おまえの気持ちは嬉しい。だが……。
「すまない、佐吉。此度は、一人で行かせてほしいのだよ。おまえの気持ちは本当に、よくわかるのだけれど……。今回ばかりは、わたしの我が侭を聞いておくれ」
まだ何か言いたげだったが、佐吉は何も言わず、頭をさげる。
「ありがとう」
そう言って、わたしは屋敷を出た。直の言っていた、五重塔へ行くために。
幼い頃は、本当によく遊んだ。公爵家に生まれたとはいえ、稚い子どもには変わりない。コロコロと、仔犬のように遊んだあの日々が懐かしい。
何故、初子さまは直を牛込へやっておしまいになったのか。
何故、わたしだけが初子さまの寵愛を受けることができたのか。
直こそが、鷹司の長男。家督を継ぐべきは、彼なのだ。
……愛しい兄。全てを直の手に返すため、わたしは夜をゆくのだ。
「常……久し振りだな、こうして会うのは」
五重塔。その高欄。直は、翳のある笑みを浮かべ、息を切らせてやってきた弟を見つめた。
「直。本当に、久し振りだね。だけれども、一体、何があったというのだい」
常の眸が、揺れている。直とこうして会うことを、嬉しいと思うのだけれども……それ以上に、困惑のほうが強いのだろう。
直が遣いを寄越すことも奇異ならば、呼び出された場所も尋常ではない。何故、牛込の直の屋敷ではなくて、浅草寺の五重塔だったのか。
彼の母親である千代に、知られたくない、聞かれたくない話をするためか。
だが、一体……こんな場所で話さねばならない事柄とは、何なのだ。今は人が居ないけれども、この場所は直の家以上に、人目につく危険が大きいというのに。
何故、わざわざ、赤の他人の目につきやすいところへ、自分を呼び出した?
「おまえの不安はもっともだ。だが、おれの家では不都合があってな……」
「そうなのだろうね。だけれど、此処だっていつ他の人間が来るかわからないところだ……」
常が言うと、何故だか知らないが、直が小さく笑った。その笑顔はひどく昏い色を秘めていて、常の不安を煽る。
この青年は、翳りのある顔をしている。笑っていてさえも、その翳りが消えることは無い。そんな直の顔を、常は見慣れていたつもりだったけれども、今の彼の顔は……違う。見慣れてきた直の顔である筈なのに、明確な差異がある。
「おまえも知っているだろう。火炎魔人の話を」
唐突に、直がそう言った。一瞬、何を言われたのかわからなくて、常は目を瞬かせる。
ゆっくりと、火炎魔人、の言葉が頭の中に入り込んでくる。……帝都を騒がし、幾人もの命を奪い、佐吉もその灼熱の手で背を焼かれたのだったか。
「知っている。けれど……」
それが何なのだと続けようとして、舌が凍りついたように動かなくなった。
「直……」
兄が手に持っているもの。真っ赤に焼けた、鏝。
両手の形をしたそれは、禍々しい光を放つ。常はそれを、見つめることしか出来ない。
直の傍らにあるのは、大きな箱。暗くて書かれている字は読めないけれど、どうやら読売が背に負う箱のようである。
「直、それは」
「おれが、火炎魔人だ」
唐突に放たれた言葉。がつん、と頭を殴られたような衝撃を常は感じた。
……今、直は……。兄は、何と言った? 火炎魔人は自分だと、そう言ったのか?
信じられなかった。だが、今、彼が手にしている焼き鏝は……。噂に聞く、灼熱の手の正体ではないのか。
「直、何故」
「おれが、帝都を騒がし、幾人もの命を奪った稀代の悪党。その正体さ」
「違う、そんなことを訊きたいのじゃない。何故、あなたが……」
しかし、それに直は答えない。ただ、真っ赤に焼けた鏝を持ち、静かに常を見つめているだけだった。
幼い頃に引き離され、行き来をすることも滅多に無かった兄。その考えを推し量るには、常と直が共有した時間は余りに短い。
きり、と常は唇を噛んだ。血の繋がりなど、こんなときには何の助けにもならないのだ。たった一人の兄が何を考えているのか、それを推し量ることも出来ないのだ。
直が何故、火炎魔人として帝都を騒がせたのか。
直が何故、佐吉を襲い、そして此処で自分と対峙しているのか。
わからなかった。いいや、わからないのではなく、考えられなかったのだ。
直の目が、真っ直ぐに常を見つめる。それを、常も見返した。密やかな感情のひらめきが、直の双眸にはあったのだけれども、それが何なのか、常にはわからない。
「直……」
「常。おれたちは、同じことを考えていたようだな」
「えっ……?」
直の言葉が、常を困惑させる。同じことを考えている、とは……?
「鷹司の者たちは、本当に……業が深いな」
常は混乱する頭を持て余す。直の言葉が意味することを見付けようとしているのに、それがかなわないほど動揺している。
夜の闇を背負った直の、その表情を見て取ることは出来ない。ただ、彼の双眸だけが、赤々と燃える鏝の光を受けて輝いている。
空気が張り詰めていく。重たい沈黙が二人の間に落ちる。耳が、痛くなるほどの静寂。
口の中が、からからに乾いている。
「常さま!」
張り詰めた空気が破られた。常を追ってきた佐吉が飛び込んできたのだ。
はっ、と鋭く息を呑む音が、佐吉の唇からもれる。常はしかし、己を追ってきた家人の方を向くことが出来なかった。
ただ、直を真っ直ぐに見据えることしか出来なかった。
「これで、悲劇の幕は引かれるんだ。常……」
「直、何を言って……」
常がとめる暇も無かった。直はその手に持った鏝を、己の掌に押し当てる。じゅっ、と肉が焼ける音とえもいわれぬ匂いがその場に立ち込めた。
ひゅっ、と常の喉が鳴る。佐吉が知らず、呻き声をあげる。直の顔が、苦痛に歪んだ。
そして。
「これで、全ては終わる。血に塗れた、帝都の悲劇は」
直は、にっ、と唇を歪めてみせると。
五重塔の高欄を乗り越え、夜の闇へと身を躍らせた。
ああ、直……。やっと、わかった。あなたが何を考えたのか。あなたの言ったことの意味が。
直。お兄さま。
そう、あなたの言う通りだ。本当に、鷹司の者は業が深い。何より、わたしたち兄弟の業は本当に深いものだね。
わたしが奪えなかったものを、あなたはその死でこの手に落とし込んでいった。
わたしが返したかったものを、あなたはその死でこの手に落とし込んでいった。
だけれども、直……。大好きだった、お兄さま。
「その厚意だけは、受けられない。直……お兄さま」
稀代の大悪党は、あなたではない。
そう……。
「死して後まで、あなたを悪し様に罵らせるようなことは、させないから」
月が晧晧と輝く夜だった。
ホゥイ、コゥリャと、船頭が声を掛け合うのが聞こえてくる。帝都が水に沈んでから、幾月が過ぎたのだろうか。こんなに明るい夜は、本当に珍しい。
『何を泣いておられます』
かつん、と見事な娘人形の首が、傍らに控えている源太のほうを向く。
『何か哀しいことでもおありかぇ』
ことりと首を傾げれば、あどけない童女のような初々しさが漂う。そんな彼女を見てか、くつくつと笑う低い声が闇の中に響いた。
「そう詮索するものではないよ、娘や」
『だけれども、おまえさま……』
「あまりに詮索が過ぎれば、却って悪いことになるからねぇ」
闇の中に、二つの人形が浮いているかのように見えるが、よくよく見れば、その背後に芝居の黒衣姿をした男の影。彼が、見事な二つの人形を、その腕に抱いているのだった。
「こんな夜であればねぇ……。そりゃぁ、思い出すのも当然だろうよ」
娘が、今度は訝しそうに黒衣を見上げる。それとは反対に、源太は深く面伏せた。そんな彼の顎から頬にかけてを、黒手甲にそこだけが白い指が優しく撫で上げる。
「おまえには、本当に辛いことだったからね。全てをわかるということは、本当に……惨いことだ」
真実そう思っているのか否か、判然としない口調だった。娘がそれを感じてか、小さく吐息を落とす。
『おまえさまは、ほんにわからぬ。そのように言うけれど、それは真実の思いかぇ?』
「ああ、そうだとも……」
くつくつと、黒衣が笑った。
柳の眉に、見事な目元。かつて、彼が人であったときの面影を残す顔。
そこに哀しみの影を見出すのは、娘も黒衣も、人とは違うゆえ。彼と同じ、夜の生きものであるゆえ。
……返せなかった。死なせてしまった。
……この全ては、一人の女が仕組んだ呪詛だった。
……自分も。
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……兄も。
……呪詛に踊らされ、家督という旧時代の遺物に踊らされた。
その全てを厭うてこの姿になったけれども……。魂の無い傀儡になりたいと願ったけれども……。
「まだ、おまえは人であったときの心を、忘れられないのだねぇ」
源太の顎にかけられた指が、軽く上に跳ね上げられる。面伏せた顔が、上を向いた。
「それもいいだろう。その哀しみを背負っていくのもねぇ……」
月夜に、低い男の笑い声が響いて消えた。
夜と闇、二つ。
一つは黄泉へ。
一つは夜へ。
哀れな兄弟の行く末は。
抱く願いの違いゆえ。抱く思いの違いゆえ。
二つに別れ、離れゆく。
一つは黄泉へ。
一つは夜へ。
……夜と闇、二つ。
おこがましくもさせて頂いた、私めの「常さんと直さんの出てくる話」という大層曖昧なリクエストを受けて頂き、 このような素晴らしい作品にして下さって滅茶苦茶感激です・・・!
この二人だけの会話が本編の方では殆ど皆無だったので、こうした創作で読めるのって本当に嬉しいです。
しかもこの場面とは・・・(感涙)
常さんと直さん、この二人の互いを思う気持ちを考えると本当に痛くて切なくて遣り切れないです・・・。
常さんを残し、自ら黄泉への道を選んだ直さんのことを正直、ずるいと思いました。
他に道は無かったのかな。。。
そう考えると本当に初子様が憎いです・・・。
常さんには、闇の者へと転じてもどうか、直さんのことを忘れ無いでいて欲しい。
輔高様、素晴らしい作品を本っ当に有り難う御座いました!m(_ _)m (イバラノ)