それは夜もいよいよ深まってきた時のこと。
とはいってもただ闇のみがそこを支配するのではなく、まだ人は灯りをつけて昼の名残を残している。
それはまるでこねられた魂のように、周囲をぼんやりと照らしては夜に反発しようとしているかのようだった。
水の上、船が行き交っては人々は談笑している。
一隻の船の上、ここに二体の人形がいた。一体が赤い着物を着た娘人形。もう一体が優しそうな顔をしたこれまた美しい源太。
「ご覧。あそこに平河さんがいるよ」
闇の中から声がした。船に乗っていたのは人形だけではなかったのだ。よくよく見れば、闇に紛れて一人の黒衣が二体の人形を抱いて座っていた。
『あれ、久しぶり』
「元気でやっているようだねえ」
娘人形と黒衣は楽しそうな声を出した。だが、源太のほうはぴくりとも動かない。微動だにせず、まるでただの人形のようだった。
「ほら見てご覧。懐かしい人だろう」
そう言って、黒衣は源太の顔を前方に向けさせた。遠く、一隻の船にはこの間まで黒衣が友として近寄っていた人間、平河がいる。平河を見ても、源太は動かぬまま。その眼は何を考えているのやら、ただ空虚を見つめるばかり。
『どうしたのだえ?』
心配そうに娘人形が聞くと、
「なに、少しばかり昔を思い出してしまっただけだろうよ」
黒衣はくつくつと笑った。
「お前、鞠乃として平河さんに近づいただろう。どんな感想を持った?」
その言葉に娘人形は首を回し黒衣を振り返った。その顔には人形ゆえ表情がない。
それでも黒衣には娘の気持ちが手に取るように分かった。―――怒っているのだ。
『その名で呼ぶなと言うとるきに』
「すまないねえ、忘れていたよ。……それで?」
反省の色を見せない返答に、はあと娘は一つ大きな溜息をついた後、やれやれという風に答えた。
『……あの男、本人は気付いておらぬが一直線なお人じゃのう。だけれども屈折している夜には向かぬ』
「そうか。確かにそうかもしれないねえ」
黒衣は笑って肯定した。白い手を娘人形の頬に当てる。そのままゆっくりと、労わるように撫でた。
娘は何も言わぬまま、それを静かに受け入れていた。
「今宵は月が丸くて明るいねえ。こんな夜は物の怪たちも大人しい」
しばらくして黒衣は源太の頬も娘と同様に撫で始めた。
源太がぴくりと反応し、黒衣を振り返って戸惑うようにじっとその黒い顔を見た。源太はまだこの行為に慣れていないのだ。
それを分かっている黒衣は源太を安心させるように一つ頷いた。
「だがそれは力が弱まるという意味ではないのだよ。物の怪たち……私たちは月に癒されるのさ。月の見事な夜は一休みをして明日に備える。それをなにやら人間達は勘違いをしているようだがねぇ」
黒衣は空を仰いだ。星はない、ただ満月がある。そして、果てなどない夜とそれを彩る闇。
「……月は夜を照らす。闇に僅かな光を与える。だが、それは夜を昼に近づけるという事とは全く別の事だ」
黒衣は笑いながら娘に問いかけた。
「お前、何故月が輝くのか知っているかい?」
『はて、わしゃァさっぱり』
「月はね、太陽の光を受けて輝くのだよ」
驚いたように娘は黒衣を見上げた。その頭を黒衣は壊れ物でも扱うように撫でる。それから、源太の方も同様に。
「月は太陽がなければ光ることができない。だが昼は太陽の光が強すぎてその姿は見えないもの。そんな月が唯一主役となれるのは夜だけだ。そういう意味では……」
少し間をおいて、黒衣は呟くように言った。
「月もまた、夜の者なのかもしれないねえ」
珍しい黒衣の真剣な口調に、娘はその顔を見上げた。黒衣は月を見ている。その表情は、黒い布に隠れて定かではない。
『今日のお前さまはいつもと違うような気がするかえ』
「そうかい。やはり満月だからかな…おや、あれはこの間の呪者の弟かな?」
ふと前をみれば平河に近づく船が一つ。そこに乗っているのは齢十三ばかりの少年だった。無邪気な笑顔を見せて平河に手を振るその姿はなんともあどけない。
『こちらに気付きもしないとは、呪者も格が落ちた証拠かえ』
「いや、そうでもない。見てご覧、ほら、いまちらりとこちらを気にした」
楽しそうに、そして嬉しそうに指を向ける黒衣に、『お前さまにはほんにあきれる』と溜息交じりの声がかかる。
だが、黒衣に気にした様子はなく、笑みを崩すことはない。
「夜にしか輝けぬものがあるからこそ、夜はそのもののために無くなることはない。どうにも人間はそのあたりを理解してはくれないが、いずれわかる時が来るはずだ。
どう足掻こうとも、瓦斯灯には照らし出すことの出来ない闇があるという事を……」
黒衣のくつくつという笑い声が当たりに響いた。面白くて堪らない、そんな声だった。
――――そうして夜は更けていく。
夜とは一体なんなのか。
闇か。
者か。
はたまたひとつのもので塗り潰された空間か。
そしてそこに咲く華とはどのような色をしているのか。
血と見紛うが如き緋色か。
それともあるかどうかすら分からぬ闇そのものの色か。
「帰り道中お気をつけて。もう夜は、決して暗いだけじゃございませんよ」
夜から聞こえるその声は。
時には三途の渡し守、または闇に潜む死神か。
黒衣と娘の掛け合いがすごく好きです。源太の頬を撫でる黒衣の妖しさったら無いですね(笑)
やっと手に入れたことがひどく嬉しそうで・・・。黒衣に呆れる娘が可愛いですー。
東亰は一体どういった未来を辿るのでしょう。光を取り戻すのか、闇の者達の世界になるのか。
神楽木いずみ様、こんな素晴らしい作品を本当に有り難う御座いましたー。(イバラノ)