「常さま、駄目ですよ。直さまはお加減が悪くていらっしゃるんですから」
こっそりと部屋に忍び込むつもりだったのに、女中に見つかってしまった。
常は肩をすくめて、上目遣いに相手を見る。
「だって、お兄さまが心配なんだもの。…ね、ちょっとだけ、様子を見るだけだから、駄目?」
甘えた声でねだると、女中は「でも…」と言い淀む。
あと、もう一押し。常が勝利を確信した、その時。
「駄目ですよ、常さん」
背後から厳しい声が聞こえた。絶望のため息とともに常は振り返る。
思ったとおり、眉をひそめて母が立っていた。
「直さんは今が一番熱の高い時です。心配しなくても、じき下がるでしょう。それよりも、またあなたにぶり返したらどうするの」
強い語気に常は反論の言葉を呑み込む。
母にだけは、常も――この屋敷の誰も逆らうことは出来ない。
「…わかりました」
ここは大人しく引き下がるしかない。
すれ違いざま、恨めしげな顔で母を見ると、女中の同情したような視線とぶつかった。
…だが、これしきのことで諦めるような彼ではない。
そもそも風邪をひいたのは常のほうだった。
季節の変わり目は天気が移ろいやすい。暑くなったり寒くなったりの気候に、常の体は付いて行けなかった。母も家人たちも大騒ぎで医者に診せたが、翌日には熱も下がって、本人はけろりとしたものだった。
だが安堵したのも束の間、今度は直にうつってしまったらしい。年に似合わず強情な彼は、まったくそんな素振りを見せていなかったのだが、昨夜になって高熱を発した。普段から丈夫で、病気とは無縁の兄がうなされているのに、常はすっかり動転してしまった。
乳母と女中がつきっきりで看病しているが、気が気ではない。
それに常は知っている。
自分が寝込んでいる間、直が何度も部屋に足を運び、傍に付き添っていてくれたことを。
だから、兄が今苦しんでいるのは他ならぬ自分のせいなのだ。自分以外の誰が、直の傍にいてやれるというのだ。
(よし、今度こそ…)
そう思い、自室に戻ったふりで廊下の陰から窺ったのは良かったが、さてどうやって入ったものか。中には勿論誰かがいるだろう。乳母であれ女中であれ、一応病み上がりである常を彼らが見逃してくれる筈がない。常は長丁場を覚悟した。
ところがその時、母が中にいた乳母を連れて出て行ってしまった。
天の僥倖、と常は思った。
その後ろ姿が消えるまでしっかり見届け、足音を忍ばせて扉へ。おそるおそる開けて、誰もいないことを確かめた。
「直…」
そっと呼んだが、返事はない。
ベッドの上の直は顔を真っ赤にさせて、息苦しそうだった。
「直、大丈夫?」
もう一度声をかけると、うっすらとその瞳が開いた。
「と、きわ…?」
熱に浮かされた目で弟の顔を認めると、絞り出すような声で言う。
「莫迦、うつるじゃないか…」
「平気だよ、僕はもう治ったもの」
そういう問題じゃない、と出しかけた言葉が咳に取って変わる。直は内心で舌打ちした。
こんな無様な姿、弟にだけは見られたくなかったのに。
「直が苦しんでいるのに、放っておくなんて僕には出来ないもの」
そんな風に言われると情けなさがますます募る。
泣き虫で頼りない弟。ずっと自分が守っていこうと、そう誓った。
だからこそ弱い姿は見せられない。見せたくない。
「…お前、ばあやに、見つかったら…しかられる…」
喘ぐようにそれだけを口にした。
「大丈夫だよ。…直だって、ずっと僕の傍にいてくれたでしょう?次は僕の番」
恥ずかしげもなくそんなことを言う常に、直は何か言い返そうとしたが思考がうまくまとまらない。直が常に付いていてやれたのは、頑丈な彼なら大丈夫だろうと皆が思っていたからだ。それが珍しく起き上がれないほどの熱を出したのだから、そんなに強くもない常が近寄ることは、当然許されていない筈である。
お前がまた寝込んだら、おれのせいじゃないか。
熱に苦しむ常の姿など、直だって見たくはない。弟を病気から守ることは出来ない。それがいつも悔しくて、せめて傍にいてやろうと思うのだけど。
「…さっさと、出て行け…」
言ってから自分の言葉の足りなさに嫌気がさす。
違う、こんな酷いことが言いたいのではない。ばあやや初子に見つかっても、今の自分にかばう余裕はないから、だから。
「嫌だよ」
常がはっきりとそう言った。
「僕がずっと、直の傍にいてあげる。ばあやに見つかっても、帰らないから」
何でそんなに強情なんだ。いつもはおどおどしてるくせに。
だが一方で、それを嬉しく思っている自分がいることを直は認めたくなかった。
弟に守ってもらうなんて恥ずかしい。兄である自分が寂しいだの心細いだのなんて言えない。こんな時だから、なおさら。
「大丈夫だよ、直。僕がいるから…」
繰り返す常の声を聞きながら、いつしか直はまた夢の中に落ちていった。
「――まあ、常さま!あれほど言っておいたのに!」
次に目が覚めたのは、乳母のそんな叫びが聞こえた時。
そうして直はしまった、と思った。
早く常を出さなければいけなかったのに、情けなくも意識を失ってしまった。しかられる常を見るのもやっぱり嫌なのに。
しかしベッドからは常の姿は見えない。どこへ、と思って首をゆっくり巡らせて、直は右手の暖かな感触に気付いた。そっと動かすと、握り返してくる手がある。
「ばあや、お気が付かれたよ!」
いきなり、ベッドのふちから弟の明るい顔が現れた。知らず直は息を呑む。
「本当に聞き分けのない方ねえ…常さま、ちょっとどいてて下さいまし」
乳母が呆れたように言うと、常は悪戯めいた笑みを浮かべて下がった。
それで直はようやく、常が自分の手をずっと握っていたのだと分かった。
「ああ、熱はすっかり下がりましたね。ようございました。奥様に知らせてまいります…常坊ちゃまのこともねぇ」
常は肩をすくめただけだったが、直がやめてくれ、と掠れた声を出した。二人の驚いた視線が刺さる。
「おれが、常を呼んだんだ。いけないことだって分かってたけど。だからこいつは、悪くない」
「違うよ、ばあや」
即座に常は否定する。
「直は帰れって言ったんだ。僕が勝手に付いてただけ」
「お前は黙ってろ」
「どうして?直は何も悪くないんだから」
そのまま互いをかばって喧嘩を始めそうな二人に、乳母はこらえきれず噴き出した。
何が可笑しいのか分からず、兄弟がきょとんとしていると彼女は更に笑みを深くする。
「…分かりました、今回は特別に奥様には内緒にしてさし上げますよ」
その途端、彼らの顔がぱっと輝く。
「本当?」
「ええ。でも今度だけですよ?今日はいい知らせもございますから」
「いい知らせ?」
「はい。旦那様が来週お帰りになるそうです。お二人を英吉利に連れて行って下さるそうですよ」
「英吉利!?」
はしゃいだ声を上げたのは二人同時。
正直なところは父と旅行することではなく、母に咎められずに二人で遊んでいられることが嬉しいのだが。
「…ねえ、直。英吉利では、路次に入っていくのはやめてね」
「何で。もと来た道をちゃんと覚えていればいいだろ」
「いつもそう言って、覚えてないじゃない…」
「あれはお前がいつも途中で泣くから。おれは迷ってない、って言うのに」
「僕のせいじゃないよ」
「どうだかな」
早くも、いつもの調子を取り戻してお喋りを始めた二人に、乳母は微笑んでそっと部屋を出る。
夢中になって英吉利での計画を立てる彼らはそれに気付かなかった。
穏やかな、春の黄昏のことであった。
ちょっと押しの強い常さんと押されぎみの直さんって…素敵です…///。
熱にうかされる直さんって想像したら、かなりキます。(何が
ええと、なんだかまともな感想じゃなくてごめんなさい。
こんな素敵な作品読むことが出来るなんて、本当に同盟やってて良かったです…幸せです…。
前田様、本当に本当に有難う御座いました!!(イバラノ)